新・快楽主義宣言

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zoom RSS 沈黙 ーサイレンスー

<<   作成日時 : 2017/02/07 00:46   >>

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○監督 マーティン・スコセッシ
○出演 アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン
○鑑賞日 2月1日
○劇場 新宿バルト9
○評価 ★★★★☆

<パンフレットより>

画像


配給会社の事前プロモーションにすごく力が入っていたので、先に遠藤周作の原作を読んでみた。
江戸時代、長崎におけるキリスト教徒の迫害の歴史が客観的に淡々と綴られた小説だったが、自身もクリスチャンであった遠藤の何か特別な思いをそこに感じてしまい、やはり、映画も観ておきたいと思うようになった。

いつもは「夫婦50割引」を使って映画を観ているが、ツレは“痛い”シーンが嫌いなこともあり、1日サービスデーを利用して一人で行った。
平日の仕事おわり、しかも160分という長尺だったので、見終わったときにはそれなりに体は疲れたが、上映中は少しもそんな長さを感じることなく最初から最後まで物語に惹き込まれた。

もし、この世に宗教が無かったら、世界はイスラム国の恐怖に怯えることも無かったかもしれないし、僕たちが学んだ世界史の教科書も今の半分ぐらいの厚さになっていたかもしれない。
しかし、人は“心”のある生き物である。
生きていくためには、不安や葛藤を乗り越えるための支えが必要であり、それが本来の「宗教」の役割なのだと思う。

これは個人的な意見だが、すべての宗教(少なくとも僕の知っている仏教、キリスト教、イスラム教など)は、共通の罪を負っている。
それは「生前、神を信じ敬い、善行を奉じれば、死んで極楽(天国)に行ける」と諭したこと。
そのことが殉教思想につながっていったのだ。
なぜ、そうなったか、理由は明らかだと思うが、あえてここでは触れない。
ただ、いずれにしても、そんな発想が無ければ、この映画で描かれたような悲劇も怒らなかったはずだ。
本来、「神は万能なのだから、自分が困ったときに勇気づけてくれればいい。」
それだけのことではないのか。

さて、映画の話に戻るが、さすがマーティン・スコセッシ監督と思わせたのは、その映像の作り方だ。
17世紀の長崎における貧しい村人たちの生活を汚すぎず、暗すぎず、しかし綺麗すぎずに映画として絶妙なバランスで表現していたし、ツレが敬遠し、僕自身も少し覚悟をしていた残酷な拷問の描写も映画を楽しめる範囲に配慮されていた。
本当に伝えるべきメッセージで勝負した作品であることにあらためて感心した。

キャスティングも原作を読んでいると、予告編で配役が分かるほどイメージも完璧だったが、一つだけ“映画的”で違和感があったのは、イッセー尾形の演じる長崎奉行の井上をはじめ、特に切支丹とはいえ、貧しい村人のほとんどが見事なまでに神父(パードレ)と英語でコミュニケーションをとっていたこと。
百歩譲ってインテリの武士ならまだしも、おそらく当時の漁村の人たちなど、読み書きすらどこまでできたのかという時代のはずなのに、あんなにペラペラ英語をしゃべられては、大学まで出たのに外国人と挨拶一つできない自分が情けなく思えてしまった。
もちろん、実際には、浅野忠信が演じたような通辞がもっと活躍するはずなのだが、そこは映画の尺の問題で仕方が無かったのだろうとは思うのだが。

それから、これは蛇足。
物語のキーマンであるフェレイラ神父を演じたのがリーアム・ニーソン。
棄教し、日本人名、沢野忠庵となって仏僧の着物を着て登場する彼が、あの“マスター・ジェダイ”のクワイ=ガン・ジンに見えて仕方なかったのは僕だけだったのだろうか。

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